沖縄コカ・コーラボトリング

当社の創立25周年記念として発行された社史「さわやか25年」より当社の歩みを紹介させて頂きます。
戦後、アメリカの統治下に入り、日本本土とは違った歴史を歩んだ沖縄。その沖縄にある沖縄コカ・コーラボトリングもまた独特の歴史を歩みました。その歴史の一片をご紹介いたします!

  • 1945-1950
  • 1951-1955
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  • 1967-1970
  • 1971-1973
  • 1974-

戦後の沖縄に誕生したコカ・コーラ工場

米軍とコカ・コーラ

1941年(昭和16年)、太平洋戦争が勃発した。日本の敗色が濃厚になった1945年(昭和20年)4月1日、米軍は日本本土に先駆けて沖縄本島に上陸。米軍は軍政府の樹立を宣言し、日本政府の行政権を停止して沖縄統治をスタートさせる。

1886年(明治19年)にアメリカ・ジョージア州のアトランタで生まれたコカ・コーラは、この頃すでにアメリカ国民の圧倒的な支持を得ていた。この人気はアメリカ本土に留まらず、海外派兵の米軍兵士たちにも支えられ、世界的なものへと拡大していった。このため、他の清涼飲料水業者が砂糖の配給その他の面で厳しい規制を受けていた戦時体制下のアメリカで、コカ・コーラだけは特権的な立場を与えられていた。 米軍の転戦に伴って、南極を除くすべての大陸に、64のコカ・コーラ壜詰め工場が次々と建設されていく。

終戦直後の青空学校

終戦直後の青空学校

沖縄に上陸した米軍兵士に対してもコカ・コーラの供給が行われ、占領直後から壜詰めされた製品がアメリカ本国から続々と搬入されるようになった。コカ・コーラをラッパ飲みする彼らの姿は、沖縄の人々の目に「強いアメリカ」そのものとして映った。

この供給は沖縄のみならず、本土でも米軍駐留に伴い行われ、終戦の年(昭和20年)10月、早くも「ザ コカ・コーラ エキスポート コーポレーション(CCEC)」の日本ディビジョン(支社)が横浜に開設され、北は北海道から、南は小倉にいたる六ヶ所に次々とコカ・コーラ工場の建設が始まっていた。しかし、それらはすべて米軍関係者だけに供給するためのものであった。

終戦の翌1946年(昭和21年)1月29日、GHQが発布した覚書により沖縄は日本から分離され、長くアメリカ合衆国の直接統治下に置かれることが決まった。このため、沖縄におけるコカ・コーラの歴史は本土と全く異なった経過をたどることになる。

コカ・コーラ工場の建設と販売開始

R.O.スペンサー氏

R.O.スペンサー氏

1946年(昭和21)のアメリカ統治の覚え書きとほぼ時期を同じくして、CCEC日本支社から初代マネージャー、R.O. スペンサー氏が着任した。彼の目的は、占領の長期化が決まった沖縄にも米軍人およびその家族にコカ・コーラを供給するための工場を建設することであった。

現在の牧港川

現在の牧港川

コカ・コーラの製造には当然、衛生的な水が必要である。当時沖縄の水道は、その多くが激しい砲撃により破壊されており、米軍が施設を管理下におき、補修しながら使用している状況だった。スペンサー氏は、米軍が確保した浦添村(現 浦添市)の字伊祖の丘陵地一帯に工場建設を決定し、比較的破損の少なかった近くの牧港の水源から自社のポンプで水を引いて使用することにし、水の使用に関して、浄水、ろ過などの厳しい手続きを定めた。

当時の工場ライン

当時の工場ライン

1950年工場内にて

1950年工場内にて

そしてCCEC日本支社とは別に、CCEC沖縄支社を設立し、工場建設が始まった。1946年(昭和21年)10月、現本社敷地内に竣工し製造を開始。製造、倉庫管理などの要員は主として米軍人が当たり、製品の配送には米軍用トラックが使用された。地元沖縄からは、男性1名、女性10名が採用され、 2年ほどすると米国人が次々と引き揚げ、代わりに地元から採用されるようになった。

製造には米国マイヤー社製の洗壜機、充填機、打栓機が使われた。これは1分間に6.5オンス(190ml)レギュラーサイズを150本製造する能力をもつ機械である。しかし現在のような完全自動式ではなく、洗壜や箱詰などは人の手に頼った。

マイヤー社製の洗壜機

マイヤー社製の洗壜機

工場建設当時の沖縄には、地元で調達できる物資や原材料がほとんどなかったため、壜、炭酸ガスなどすべてがアメリカ本国より取り寄せられていたが、1948年(昭和23年)ごろからはアメリカからは原液のみ取り寄せ、キューバから仕入れた砂糖と調合して沖縄の工場でシロップを造るようになった。
そして製造されたコカ・コーラは、PXやコミッサリーと言った軍の売店へ配送された。190mlの壜1ケース(24本入り)で卸値1ドル、小売は1ドル20セント、PXでのバラ売りは1本5セントであった。

コカ・コーラと沖縄の人々

闇市場

闇市場

当時コカ・コーラは米軍関係者のみに供給される製品であり、民間での販売は認められていなかった。しかし、これは「正規のルートを通しては」という注釈をつけてのこと。荒廃の極限ともいうべき焦土から立ち上がり、したたかに生きようとする当時の沖縄の人々が、この魅力的な飲み物を見逃すはずはなかった。

そして、これらを含め、島産品などあらゆる物流の流通拠点として「闇市場」が自然発生し、その一つが現在の那覇市国際通り脇の「平和通り」界隈に発展した。

B型円軍票10円券

B型円軍票10円券

1948年(昭和23年)7月から、ドルに切り替えられる1958年(昭和33年)9月までの約10年間、沖縄では法定通貨としてB型円軍票(通称B円)を使用していたが、公務員の初任給が200B円ほどであった当時、コカ・コーラは1本25B円~30B円で飛ぶように売れたという。コカ・コーラはすでに庶民の生活の一部だったのである。

また、人々は飲料などのスカット壜(使用できなくなった壜)を利用し、実用的なガラス製品を作った。これらはすぐに米軍兵士の目にとまり、見学にやってきた彼らは、欲しいガラス製品のデザインを説明し、注文するようになった。その注文に応じて、人々は様々な実用品、装飾品を造るようになった。原料として米軍からもたらされる廃壜は何でも利用されたが、コカ・コーラの壜は現在のジョージアグリーンではなく無色透明であったため最も利用されたという。
そして、職人たちの業が次第に研かれ、現在、沖縄の代表的な民芸品のひとつである「琉球ガラス」に発展した。現在のものは当時とは比較にならないほど進歩したが、廃壜を主な原料とするところは今も昔も同じである。

L/Cブームとアメリカ民政府

アメリカは1949年(昭和24年)5月、大統領承認の下、沖縄を日本から分離保有することを国の公式政策として、沖縄の長期保有と軍事基地の建設に乗り出した。沖縄住民にはその見返りとして、従来の救済政策から一歩踏み出した積極的な復興政策を打ち出した。

L/Cにより日本から輸入された木材

L/Cにより日本から輸入された木材

その一環として1950年(昭和25年)10月20日布令を出し、沖縄の民間人が自由に外国と貿易する権利を認めると、「L/Cブーム」と呼ばれる貿易ブームが始まった。L/Cとは貿易用語のLetter of Credit(商業信用状)の略称で、銀行が一定の条件のもとに輸入業者に信用を提供し、支払いに責任を持つ書状のことである。要するに銀行が保証するこの書状を送ると、外国の輸出会社は安心して品物を売ってくれるのである。

物資が絶対的に不足していた当時は何を輸入しても飛ぶように売れるので商売の経験のない者までもがL/Cを組むために銀行に殺到した。
銀行ではこの申請方法について講習会を開いたが、初めて経験する貿易ということや英文ということもあり、申請書類には記入ミスが多く、すんなりと銀行窓口を通ることは稀だった。一度は窓口から書類が返されることが通例にさえなっていた。

貿易庁ブーム

貿易庁ブーム

当然のことながら、アメリカ統治下では、日本本土と貿易する場合にも国際貿易扱いでL/Cを組まねばならず、そのことによって人々は図らずも、沖縄が日本から切り離されたという事実を実感させられた。
それでも依然物資の不足は続き、これを緩和するため米政府は直轄の貿易庁にて物資を大量に輸入し入札販売をした。すると今度は貿易庁ブームが起こり、物資は飛ぶように売れた。
このような背景の中、沖縄の統治は米軍政府、民政府、琉球政府と次々の統治機構の変更が行われた。

沖縄の国際商事が国内初の民間販売

民間向け販売開始

1951年(昭和26年)、民政府の民政官J.M.ルイス大佐は、コカ・コーラ民間販売の権利を、かねてより申請のあった又吉世澤氏に認可した。

J.M.ルイス民政官

J.M.ルイス民政官

同氏はこれに先だって、民政府直轄の貿易庁の斡旋で、CCEC沖縄支社と販売契約を取り付けることに成功しており、コカ・コーラが正式に沖縄の民間市場で販売されることが決まった。 このCCEC沖縄支社との契約内容はコカ・コーラ レギュラーサイズを当分の間1日500ケース、将来的には1日5000ケースの供給を受け、1本10B円で民間販売するというものだった。

そして同年9月1日、那覇市美栄橋に国際商事合名会社を設立し、業務を開始した。 これは本土(東京)において、コカ・コーラの民間販売が認可されたのが1957年(昭和32年)であるから、これより6年早かったことになる。

又吉世澤氏

又吉世澤氏

ところで、コカ・コーラの製造・販売は、米軍に対する供給といった特別な場合を除いては、基本的に現地資本、現地雇用の原則を貫くことを徹底している。つまり、その地域でコカ・コーラの壜詰め販売を行う希望のある投資家を募り、その資格があると認められた会社に、一定の地域内における製造・販売の権利を与え、その会社は「ボトラー」と称することになる。 そして、当該ボトラーの販売地域には新たに別の会社等に対して、製造・販売権を認めないことを原則とする。アメリカ本社からは「原液」のわずかな原料のみを送り、その他ほとんどの原材料、壜容器などの資材、製造機械、販売に要するトラックや販売機材、労働力の一切を現地で調達させる。いわゆるボトラーシステムと呼ばれ、今日では様々な業種で類似したやり方がよくみられる。
コカ・コーラの膨大な販売量を考える時、経営資源のほとんどを現地資本でまかなうこのやり方が、地域経済にもたらす恩恵は無視できない。コカ・コーラの商品としての魅力に加え、このような販売システムの要素が加わり、様々な国に比較的容易に進出を果たしていると言えよう。

沖縄での民間販売の権利を取得した国際商事は、CCECのコカ・コーラ沖縄工場で製造される壜製品を仕入れ、販売のみを行うのであるから、正式なボトラーではなく、いわゆる販売総代理店ということになる。
なお、この壜製品の仕入れは、島内L/Cの形態となり、輸入品扱いをされた。このように島内L/Cについては、駐留アメリカ人の所有する自動車を沖縄に移住する者が購入する時などを含め、復帰前まではよく利用された取引手段であった。

国際商事の販売方法

うるま新報掲載のコラム

うるま新報掲載のコラム
(1951/9/2付)

1951年9月1日設立の国際商事合名会社により、同年9月5日よりコカ・コーラの民間販売が開始された。

販売価格は、小売価格10B円に壜の保証金4円80銭B円を加えた。闇市での価格が25B円から30B円であったから、これに比べて半値以下である。 9月2日付けの当時のローカル紙「うるま新報」には、“安いコーラが公然と飲めます”と題したコラム記事が掲載された。
このことからも、コカ・コーラは民間販売前からすでに、沖縄の人々の生活にずいぶん浸透していた様子がうかがえる。

ジョン.S.ペンバートン博士

ジョン.S.ペンバートン博士

エイサ.G.キャンドラー氏

エイサ.G.キャンドラー氏

国際商事の販売の様子を述べる前に、アメリカにおけるコカ・コーラ販売の歴史について少し触れておくことにする。

コカ・コーラは1886年(明治19年)、ジョージア州アトランタの、ジョン.S.ペンバートン博士により発明された。しかし資金の乏しかった博士はアトランタの4軒のソーダファウンテン(ソフトドリンクを飲ませるパーラー)以外で販売する手だてがなかった。そして1888年(明治21年)博士がこの世を去った後、事業を引き継いだ、エイサ.G.キャンドラー氏によりコカ・コーラは画期的な方法で販売された。

彼はコカ・コーラを若い甥たちを使って馬車で1軒1軒の小売店へ販売させる方法をとった。従来の販売方法では、お店に客が飼いに来るのを待つだけであり、またお店の中ではどのように扱われているのか把握することができない。その点、顧客を開発するために、直接小売店へ出向けば、手間はかさむが、販売交渉や製品の十分なフォローなど一切が自分たちの手でできる、というわけである。
これは「ルートセールス」と呼ばれ、製造・販売の権利を獲得した世界中のボトラーで行われているが、国際商事もこの販売方法を忠実に実行した。
ただし1951年9月5日の販売開始直後だけはいい意味で少し様子が違った。 販売店の方から注文が殺到したため、まず販売店側が国際商事に出向いて注文と代金支払いを済ませ、その後セールスマンが製品を店に配達した。つまり販売交渉などする必要がなかったのである。

国際商事の新聞広告

国際商事の新聞広告
(1951/9/8付)

9月8日付けの「うるま新報」には、“コカ・コーラ配達販売契約の申し込み手続き中、ご希望の方はご来社ください”という内容の国際商事の広告が掲載された。「みんな誇らしげに配達したものだった」と、当時のセールスマンの一人は、このときの様子を回顧している。しかし、あくまでこの状態は一時的なもので、後はもちろん、通常のルートセールス方式で営業を進めている。
事業開始に当たって、CCEC沖縄支社から国際商事にフォード社のトラックがプレゼントされた。ルートセールスにはこのフォード社の他、組立車輌(中古部品を寄せ集めて作った車輌)が使用された。当時の沖縄では民間車輌はきわめて少なかった。
なお、当時の主な販売先は本島内の雑貨商のほか、料理屋、旅館などであったが、販売開始直後から売り上げは非常に好調に推移していった。

嗜好飲料税の施行

当時の琉球政府庁舎

1954年(昭和29年)当時の琉球政府庁舎。
左側は立法院ビル

コカ・コーラの民間販売が始まった翌年の1952年(昭和27年)4月1日、民政府の布令に基づき、琉球政府が設立された。これは沖縄住民による自治機構で、国家の最高権力として機能できるものであったが、実際には民政府が監視する構造であった。

同年5月8日、発足後間もない琉球政府の立法院において、嗜好飲料税法の立法が議題に上った。これはコカ・コーラをはじめ、その後増えることが予想される清涼飲料業者の売り上げに対して課税するもので、琉球政府発足の準備段階から懸案になっていたものである。コカ・コーラ販売代理店の国際商事側でもすでにこの課税に同意しており、立法はすんなりいくものと思われた。

ところが立法院では法案の審議に入るなり、その税率の設定でもめにもめた。結局一ヶ月あまり激しい議論が戦わされ、6月9日の本会議でようやくこれを可決した。
10B円のコカ・コーラに対する課税は、税率15%で売り上げ1本あたり1円50銭B円と決まった。国際商事はこの税金について、自社と小売業者とで75銭ずつ負担し、小売価格は10B円のまま据え置くこととした。

業務開始より九ヶ月が経ったこの頃、国際商事は社員60余名を擁し、黄色に塗装された15台のルートトラックで毎日ゆうに1500ケース以上のコカ・コーラを販売していた。余談だが、この黄色のルートトラックは、もともとコカ・コーラのトレードカラーの赤色だったものを、消防車と見間違えるとの指摘を受けて塗り替えたとのことである。

この頃、競合業者はわずかにあるものの、沖縄の清涼飲料市場はほとんどコカ・コーラの独壇場といえる状況であった。 嗜好飲料税が施行されてから翌年3月までの八ヶ月間、国際商事の納税額は1400万B円を超え、一躍、沖縄一の高額納税者となった。

国際ビル

国際ビル

そのような発展を遂げ、国際商事は翌1953年(昭和28年)には那覇市役所前に自社ビル「国際ビル」を建設し、翌年1月には、本島内四ヶ所に出張所を開設、販売体制を強化した。しかし、この頃より清涼飲料業者がぼつぼつ増え始め、市場もコカ・コーラの独壇場とはいかなくなった。なお、嗜好税の税率については、この後何度か改正され、最終的には税率20%に落ち着き、祖国復帰まで適用された。

CCEC沖縄支社とアメリカ軍向け販売

CCEC沖縄支社

CCEC沖縄支社

国際商事が民間向け販売を開始した以降も、コカ・コーラ製造元のCCEC沖縄支社では、アメリカ軍への販売を継続して行っていた。

1953年(昭和28年)以降は地元から採用された従業員が米軍基地内でルートセールスマンとして登用されるようになり、PXなど基地内販売店のセールス活動に当たった。

ルートトラックを背景にした当時のスナップ

ルートトラックを背景にした当時のスナップ

昭和30年代

昭和30年代。街にコカ・コーラの看板も見える

今では想像できない次のようなエピソードがある。
「ある日、アメリカ軍より注文が入り、配達するようにと会社から指示された。配達先は天願軍港ということだった。 指示通り、コカ・コーラレギュラーサイズ50ケースをトラックに積み込んで、二人で配達先の港へと向かった。ところが到着してみると特に注文先らしい施設は見あたらない。沖合に軍用貨物船が停泊しているだけである。いったいどういうことなのだろう。よくよく港を見回すと、岸壁にゴムボートがつながれているのに気付いた。もしかしたらと、ヘルパーと二人、ゴムボートにコカ・コーラのケースを積んで恐る恐る貨物船の近くまで漕いでいった。すると貨物船の上からハシゴが下ろされた。やはり、注文先はこの船だったのである。ケースを担いでハシゴを上ることはとても不可能だったので、船上の米兵にロープを投げてもらい、ケースをくくりつけて引き上げさせた。これを50ケース分、繰り返した。」
この珍しい海上配達のことは今でも鮮明に覚えていて、よく思い出話に上るということである。

製造販売のフランチャイズ権を獲得

沖縄ソフトドリンクス合名会社設立

W.E.マチェット氏

W.E.マチェット氏

CCEC沖縄支社のマネージャーであったW.E.マチェット氏は、1956年(昭和31年)沖縄におけるコカ・コーラ製造販売の10年間のフランチャイズ権をCCECから得た。そして同年5月に琉球政府から外資導入の認可を受け、コカ・コーラ沖縄工場の全施設を買い取り、9月19日沖縄ソフトドリンクス合名会社を設立した。

新会社は従来のシステムをすべて引き継ぐ形で製造・販売を行い、一般の販売は従来通り国際商事が行っていたが、翌年10月には国際商事を吸収合併し、沖縄におけるコカ・コーラ事業を一手に担うこととなった。

当時、フォークリフトを担当していた女性社員

当時、フォークリフトを担当していた女性社員

B円からドルへ

B円からドルへ

ちなみにこの1957年(昭和32年)、CCECジャパンディストリクトとは別に、日本コカ・コーラ株式会社の前身、日本飲料工業株式会社が設立され、コカ・コーラ事業が日本本土で本格的に開始された。

沖縄ソフトドリンクス発足より2年後の1958年(昭和33年)、B円が撤廃され、法定通貨がドルに切り替えられた。

住民には前もって知らされることなく、民政府の通告によって突然行われたものである。交換レートは1ドル対120B円で、コカ・コーラは1本10セント+ビン保証金5セントで販売された。

当時は飲料会社の販売合戦が激化し、ビンの保証金をプラスする煩わしさが弱みとなっていた。当時セールストレーニングを担当していたフィールドマネージャーはマチェット社長に何度もビン保証金制度を撤廃するよう進言した。しかし、彼は頑として首をたてに振らなかった。“ビンこそコカ・コーラ最大の財産”というのが彼の考えだったのである。

コカ・コーラファミリーサイズ

コカ・コーラファミリーサイズ

そのような理由もあってコカ・コーラの売り上げは後退していった。1957年(昭和32年)に25万ケースであった販売数は、昭和34年には23万ケースにまで落ち込んだ。

この間、市場低迷の打開策として、1957年(昭和32年)1月にコカ・コーラファミリーサイズ25.6オンス(770ml)ビンを新発売した。製造設備は新たに1分間に7本製造できる機械デキシーを導入した。このデキシーは製品の充填と打栓のみを行う機械であったため、製造に手作業が発生した。 同年5月には、新製品・ファンタオレンジとクラブソーダ250mlビンの販売を開始した。この製造にはコカ・コーラレギュラーサイズを製造していた従来のマイヤー社製の機械を兼用機として改造した。なお、ファンタビン製品は他府県では200mlで販売されているが、沖縄では現在も250mlである。

高等弁務官制の施行

当時のAサインバー

当時のAサインバー

1958年(昭和33年)9月、マチェット氏は新製品を宣伝するため、東京から全日本バーテンダー協会長でシェーカーの名手といわれた本多春吉氏を招き、コカ・コーラ製品を使ったカクテル作りを披露してもらった。

当時、コカ・コーラ ファミリーサイズは経済的なパッケージとして、Aサインバーやレストランなどではコーク・ハイ、つまりウィスキーのコカ・コーラ割りなどによく使用され好調な売れ行きをみせた。
しかし一般市場では、家庭の冷蔵庫もさほど普及しておらず、冷えたコカ・コーラを飲む分だけ購入する当時の消費実態になじまず、あまり普及しなかった。

沖縄ソフトドリンクス時代 会社敷地内に勢揃いした従業員

沖縄ソフトドリンクス時代 会社敷地内に勢揃いした従業員

1957年(昭和32年)、当時のアメリカ合衆国大統領アイゼンハワーの行政命令により、民政府の最高責任者として高等弁務官制度が敷かれた。
高等弁務官は初代のJ.E.ムーア中将から最後の6代J.B.ランパート中将まで、現役陸軍軍人の中から大統領の承認を得て選任された。従来の民政長官、民政副長官の両方を兼ねる絶対的な権限を有したため、歴代高等弁務官それぞれの性格が施策に色濃く反映され、沖縄県民はこれに翻弄される。

アイク訪問を当て込んでの出店

アイク訪問を当て込んでの出店

そのような中、1960年(昭和35年)6月アイゼンハワー大統領が沖縄を訪問するが、沖縄の祖国復帰を請願する2万名あまりのデモ隊から“アイク帰れ”のシュプレヒコールを浴びせられた。

この時、沖縄ソフトドリンクスはこの人出を当て込んで沿道に臨時の売店を出し、コカ・コーラは大人気を博した。大統領は反対されたが、コカ・コーラは歓迎された。当時の沖縄のアメリカとの関わり方を端的に象徴する一幕であった。

失地回復への努力

当時、ルートセールスに使われた三輪車

当時、ルートセールスに使われた三輪車

リヤカーでのルートセールス

リヤカーでのルートセールス

当時のセールスマン達は、売り上げの減少を手をこまねいて見ていたわけではなかった。販売量の回復へ向けて懸命の努力を続けた。とはいえ画期的な手段などはなく、粘り強く足で稼ぎ、そして販売店との強固な信頼関係を築く地道な努力を続けるほかなかった。
このころ、那覇市の桜坂など、道の狭い繁華街への納品は三輪自動車、自転車、リヤカーなどが使われた。自転車配達には、荷台に製品を5ケースほど載せ、廃品のゴムチューブでくくりつけて配達した。店先に置かれている空ビンの数が配達数の目安だった。スナックなどの店先で、夜、開店するまで何時間も待たねばならないこともあった。そうでなくてもセールスマン達が夜8時前に帰れることは滅多になく、夏場や旧盆、正月前後などは帰りが明け方になることも当たり前だった。

小売店にコカ・コーラのロゴ入りアイスクーラーの販売も開始された。「アイスクーラー販売のときは、その中に氷を細かく割って入れるよう説明し、アイスピックも付けたのに、割ると早く溶けるのでもったいないとブロック状態の氷をそのままクーラーに入れる店主が多く、苦労した」と、当時のあるセールスマンは語っている。

そのような中、ファンタオレンジに次ぐ新製品として、1959年(昭和34年)にファンタグレープ250mlビン、2年後にバブルアップ16オンス(472ml)・同8オンス(236ml)ビンを発売した。バブルアップ8オンスは発売当初の小売価格が10セントであったが、他飲料への対抗策で、発売まもなく5セントに値下げせざるを得ない状況となった。

頭の上にコカ・コーラ

当時の街角でのスナップ。頭の上にコカ・コーラ

営業主任トレーニング終了式

営業主任トレーニング終了式

また、1961年(昭和36年)に、日本コカ・コーラ社から講師を招いて、販売強化策の一環として、営業主任を対象としたセールストレーニングを実施した。

これら販売増へ向けた対策により、民間市場の販売数量は1959年(昭和34年)の23万ケースから1962年(昭和37年)には37万ケースにまで伸び、さらにその翌年には44万ケース、そして1966年(昭和41年)には何とか47万ケースにまで回復したが、対抗する飲料会社の販売数量には遠く及ばなかった。
この頃、沖縄の市場には清涼飲料業者が乱立、一時は24社のソフトドリンクが市場でひしめきあい競合した。当時、コーラと名の付く製品だけでも、ミッションコーラ、ミスターコーラ、RCコーラ、ラッキーコーラ、ダブルコーラ、ボンコーラ、ウインコーラなどその他多くの種類の清涼飲料が市場に出回っていたが、そのほとんどが沖縄の祖国復帰と前後して姿を消していった。

その頃から、広告活動の一環として、コカ・コーラのロゴ入りのカレンダーなども各小売店に配布するようになったが、これら広告物のほか、社用封筒や便箋なども含めてほとんどがアメリカから直接輸入していたため、これらの物品には琉球政府より宣伝用品の名目で50%の関税が課された。

1951年(昭和26年)から始まった沖縄の市場販売量はファミリーサイズやファンタの発売などで一時のどん底から上向きに転じたとはいえ年間約40万ケース台に停滞した。沖縄ソフトドリンクスの経営陣は競合会社に対する明確な販売戦略を示すことができず、また車両、販売機材など市場への投資もほとんど行われなかった。

沖縄の経済が活発化し、コカ・コーラ社製品の販路拡大の余地が十分に残されている状況の中で、会社は販売体制の再構築など、局面転換を図るため思い切った施策を講ずる必要に迫られていた。

沖縄コカ・コーラボトリンクの誕生

高梨仁三郎の決断

1962年(昭和37年)以降、沖縄ソフトドリンクスの販売量は一部製品の価格改定(値下げ)の効果などで、いくらか上向きに転じたが、全体の伸長率という点では、必ずしも芳しいものではなかった。セールスマン個人個人の地道な努力だけではトップとの差をくつがえすことは実際問題として不可能であり、セールスマンの努力に報いるためにも何か起爆剤になるような策を講じることが必要だったが、当時の会社は設備の老朽化など諸々の問題を抱え、何ら有効な打開策を見いだせずにいた。手詰まりだったのである。

1966年(昭和41年)秋、沖縄ソフトドリンクス社長W.E.マチェット氏はフランチャイズ権を返上し、沖縄におけるコカ・コーラ事業の一切を譲渡したい旨、日本コカ・コーラ社に申し出た。

高梨仁三郎社長

高梨仁三郎社長

同社は早速、東京コカ・コーラボトリング株式会社 高梨仁三郎社長に事業継承の意志を打診した。高梨社長は幾多の困難を克服し、日本市場に初めてコカ・コーラを導入、成功を収め、当時すでにコカ・コーラボトラーのリーダーとして活躍し、日本コカ・コーラ社との緊密な協力関係を築いていた。 高梨氏こそ沖縄でのコカ・コーラ事業を継承する適任者であると、同社は判断したのである。この時、日本本土においては東京コカ・コーラボトリング社を筆頭に、すでに全国各地に16のボトラーが出揃っていた。

広告展開

“だけ”シリーズの広告展開

コカ・コーラは堂々、日本市場で清涼飲料占有率の第1位の座にあり、なおも急成長を続けていた。1962年(昭和37年)から1965年(昭和40年)まで各広告媒体に用いられた名コピー“スカッとさわやかコカ・コーラ”は誰もがそらんじているほど定着していた。引き続いて電波にのった“意見が合うのはコカ・コーラだけ”をはじめとするコマーシャルも好評で、コカ・コーラは大衆の心をがっちりつかんでいた。

日本コカ・コーラ社から要請を受けた高梨社長は、より詳しい事情を知るため、同社に対し沖縄の清涼飲料市場や会社保有資産の詳細な調査を依頼、報告を受けた。当時の東京コカ・コーラボトリング社の状況から見た場合、資金的な面からいえばなんら問題はなかったが、米国統治の特殊状況下にあった沖縄の将来性や、本土とは異なった飲料業界の状況などから高梨社長は多少逡巡したものの、沖縄でのコカ・コーラ事業を引き継ぐ決意を固めた。その上で当時の第一勧業銀行頭取 藤森鐵雄氏を訪ね相談をした。
これに藤森頭取は「沖縄は先の大戦で莫大な被害を被り未だ特殊な状況下にあります。しかし、祖国復帰を機にきっと良い方向に向かっていくと考えます。ご苦労はあると思いますが、沖縄の将来のためにも」と激励した。その後、高梨社長は晴れ晴れとした気持ちで、沖縄の社会もきっと明るい方向へ進むという信念のもとに、沖縄でのコカ・コーラ事業を推進していった。

再建への第一歩

前田明初代取締役総支配人

前田明初代取締役総支配人

1967年(昭和42年)5月、事業継承への第一弾として東京コカ・コーラボトリング社から4名が沖縄ソフトドリンクスへ派遣された。新会社設立のための基礎作りが任務であった。

総支配人として赴任した前田は、視察に訪れた際、ユニフォーム無しにサンダル履きのセールスマン、雨漏りする社屋、老朽化した製造設備、塩害でボロボロになったルートトラックなど、これらのものを目の当たりにして、愕然とすると同時に心に期するところがあったという。
東京という巨大マーケットにおける販売ノウハウを持つ強力な助っ人を得て、これまでの営業体制と製造設備が徹底的に見直されることとなった。最初のうちは地元社員との多少の隔たりがあったものの、コカ・コーラをより多くの人たちに飲んでほしいということで目的は一つ、話し合いを重ねて協調点を見出すのにさほど時間はかからなかった。

まず1962年(昭和37年)に競合飲料に対抗するため値下げしたファンタ250mlとバブルアップ236mlビン製品を、1967年(昭和42年)6月から元の10セントへ戻した。そのため一時売り上げが5分の1に落ち込み、セールスマン達の不満もあったが、すでに対応策はとっており、他業界でも初めてともいえた景品価値を強く印象づけた「蓋つきガラスボウル」の本格的な消費者プロモーションを準備していた。6本買うと1個の「蓋つきガラスボウル」(3色のうち1個選ぶ)を付けるこのプロモーションは、値上げ二ヶ月後に実施され、沖縄では初めての企画であったため大きな反響を呼んだ。中には3色揃えるために製品を買い求めるといった状況にもなり大成功をおさめ、その結果、料金改定前の販売量をまもなく回復し、さらにその数字を上回るまでに伸長していった。
さらに競合を追い越すための決定打として、コカ・コーラホームサイズ(500ml)を発売した。

ホームサイズの発売告知広告

ホームサイズの発売告知広告

竣工間もない新工場棟

竣工間もない新工場棟

本土各ボトラーでは3年前より発売され、沖縄でも人気を得ることは間違いないと思われていたが、狭いマーケットに競合会社がひしめく沖縄では、情報漏れが致命的な結果を招きかねないため、計画は秘密に進められた。
計画の全容は社内でも3名が知るのみであり、他の社員には伏せられたまま、新工場棟の建築に取りかかった。人海戦術による突貫工事で短期間の内に178坪の鉄筋コンクリート造りの本格的な工場棟を竣工した。
そして1967年(昭和42年)12月23日、小売価格1本15セントでコカ・コーラホームサイズが発売された。 発売直後から驚くべき売れ行きを示し、パッケージ戦略の重要性を強く認識させられるとともに、東京コカ・コーラボトリング社の経営に対する信頼感と期待感を高めた。この年、様々な販売企画や企業努力も加わり、年間販売数量は対前年比48%の92万ケースを達成した。

沖縄コカ・コーラボトリング株式会社設立

W.E.マチェット氏からの事業継承の手続きに当たり、1968年(昭和43年)2月1日、創立総会を開催し、高梨仁三郎代表取締役社長以下、取締役選任などの議案を可決した。別法人として登録した会社は法務局より商号変更の指示があり、「沖縄飲料株式会社」と改称した。諸々の手続き、契約を経て、同年3月12日、沖縄コカ・コーラボトリング株式会社に再度商号を改称登記し、いよいよ当社の新たな歴史が名実ともにスタートしたのである。

新会社は、同年3月14日、15日の両日、設立披露パーティを挙行した。パーティでは挨拶に立った高梨社長は、水を打ったように静まりかえった場内を見渡し、ゆっくりと穏やかに話し始めた。

挨拶を述べる高梨社長

挨拶を述べる高梨社長

「私がある人からコカ・コーラに関する情報を知らされたのは、戦後間もない昭和22年の大晦日のことでした。東京や大阪などがまだ焼け野原で、戦後の復興のメドも立っていない頃です。私は戦前から食品問屋の仕事に携わってきて、その古い体質を変えたいという考えを持っておりましたので、コカ・コーラの話を聞いて、その販売方法や経営理念に強く引かれました。なんとかしてこのコカ・コーラを導入したいと思い、いろいろ走り回りました。しかし、当時の日本では、まだ叶わないことでした。
その後、いろいろ苦労がありまして、なんとかやれそうな状況になってきた昭和27年、私はフランチャイズの権利をもらうためアメリカにあるコカ・コーラ本社に行きました。フランチャイズの権利はもらえたのですが、このとき向こうの責任者に『高梨さん、コカ・コーラを売ろうというのはよく分かるが、いったいあなたは今の日本でどこに売るんですか』と言われました。アメリカから見れば、日本はまだまだ一般市場でコカ・コーラを販売するような状況ではなかったというわけです。
この時私は、『あなた方が日本を全部焼いて灰にしてしまったから何も残っていない。しかし日本人には優秀な頭脳とどこにも負けない勤勉さがある。この頭と体が残っている限り、日本は必ず復興する』、と日頃の信念で反論しました。
私は、沖縄へ参りますのは戦前戦後を通じて初めてのことです。しかし先の大戦でこの地がどれほどの被害を被ったかについては聞くに及んでおります。本当にここまで復興するのにどれほどの苦労があったことか、と皆様方の努力と熱意を感じます。いま沖縄を見て、自分の信念が裏付けられた思いです。
この度、日本コカ・コーラの紹介で、この地沖縄でコカ・コーラの会社をやらせて頂くことになりましたが、事業活動を通して沖縄のために少しでもお役に立つことができればと思い、お引き受けした次第です。なにとぞ、ここにお集まりの皆様方のご支援を頂ければ幸いでございます。」

拍手が鳴りやまぬ中、コカ・コーラの王冠を開ける爽やかな音が会場に響き、門出を祝った。
古くから勤める社員達にしてみれば、複雑な心境であっただろう。アメリカ軍の管理下での工場稼働と供給に始まり、CCECの販売、国際商事の販売、マチェット氏への経営移行、そして国際商事の併合と、次々と変遷を辿ってきた会社が、今また東京コカ・コーラボトリング社の経営へと引き継がれていく。このことに彼らが不安を感じなかったはずはない。
しかし、パーティの翌日、高梨社長が本社工場敷地内で俄か作りの壇上から全社員を前に述べた力強い言葉は、この不安をおおかた拭い去るものであった。

「私がすべて引き継ぐから安心しなさい。皆さんには今までどおり勤めていただきます。必要なら1億円でも2億円でも援助します。何かあったらこの前田に言ってください。沖縄のために全力を尽くします。皆さんも心を一つにしてがんばってください。」

経営の采配を振るうことになった前田総支配人は、この高梨社長の言葉を受け止め、経営の移行に動揺する社員の気持ちを治めるのに腐心した。当時会社には数名の外国人を雇用しており、地元従業員の実に10倍以上の月給であったが、最初に解決すべき問題として、彼らの在琉を証明する書類にサインしなかった。それは実質的な解雇を意味し、外国人らに支払われていた給与の原資はすべて地元従業員に振り分けられ、経営の移行は一歩一歩着実に全社員に受け入れられていった。

本格的稼働

新会社としてスタートし、職場環境の改善を最優先という高梨社長の意向を受け、老朽化した建物を次々と改築・改造した。これらの建設には社内の大工経験のある3、4名のスタッフが動員され、ほとんど自前で竣工にこぎつけた。設計と登記は当然専門家の手にゆだねられたが、建物の出来映えは本職にひけをとらない本格的なものであった。

好評を博したファウンテンズグラス プロモーション

好評を博したファウンテンズグラス プロモーション

スプライトを全国に先駆けて発売

スプライトを全国に先駆けて発売

1968年(昭和43年)、目標として「マーケットシェアNo.1」と「年間販売数量500万ケース」を掲げたが、当時沖縄での占有率は3位、前年はホームサイズが圧倒的な売れ行きであっても年間92万ケースという状況であった。
目標達成をめざし、3月には会社発足と同時にホームサイズ2本につきファウンテンズグラス1個進呈というセールスプロモーションがスタート。ユニークなデザインは幅広い層から人気を集め、売れ行きに拍車をかけ製造が追いつかないほどであった。
4月にはレモンライム・フレーバーの透明炭酸飲料スプライト200mlが本土に先駆けて発売した。この頃から清涼飲料水市場が全般に亘り多様化傾向が見られるようになり、スプライトの発売はこういった市場動向に対応するものであった。
セールスマン達はスプライトの味わいを知ってもらうため、コカ・コーラレギュラーサイズのケースにスプライトを4本だけ混ぜて販売店に購入してもらうようにし、徐々に本数の割合を増やし、1ケースにコカ・コーラとスプライトを半分ずつ入れて販売する方法が習慣化した。本土ボトラーで販売が開始される頃には、スプライトは沖縄にすっかり定着していた。

立て続けにセールスプロモーションを実施

7月にはファンタとスプライトの好きな組み合わせでビーチホールが、9月にはホームサイズ特製3キャリアに小皿がつけられた。翌年には、ホームサイズ3本にワールドグラスが1個、7月にはファンタまたはスプライト6本でぺんてるクレパスをプレゼントするなど、積極的な販促活動を実施した。祖国復帰前のこの頃、沖縄には独占禁止法や不当景品類防止法などの法律がなかったため、競合他社も様々なセールスプロモーションを相次いで実施、景品はどんどん豪華になっていき、セールス合戦が加熱した。
9月には競合他社が大々的なプロモーションを実施し、特賞で冷蔵庫、洗濯機、レンジ、ダイニングテーブルセットなど台所用品一式をプレゼントするほか、主婦層をターゲットとした賞品を並べ豪華さが話題を呼んだ。

このような中、営業部、製造部とも以前にまして目の回るような忙しさに追われた。工場はフル回転で、終業時間は連日深夜に及び、他部門からも応援に回り全社を挙げて生産活動を支援した。
最盛期にはレギュラーサイズ、ホームサイズ、どちらも販売に追いつかない状況で、当時の従業員は「肉体的にはきつかったが、製品は造っただけすべて売れるのだから、仕事は苦にならず、むしろ楽しかった。コカ・コーラがこんなに売れるものなのかと思うと嬉しくてたまらず、とにかく一所懸命だった」と話している。
営業活動も市場占有率が一気にトップに近づいたため一層盛り上がった。この頃は、各地に娯楽施設や飲食店が増え始めた時期で、新規開拓活動は非常に重要な役割であり、セールストレーニングのほか、配送の効率をよくするための方法を考え出すなど独自の工夫も加えた。店先からかき集めた空ビンの数だけ納品するバラ売りはもう過去の話だった。
そして3月1日から12月末日までの10ヶ月間で131万ケースの販売数量となり、初めて100万ケースを突破した記念すべき第一歩となった。

プロモーション・広告合戦

1969年(昭和44年)8月から9月には競合他社の豪華な賞品に対抗して、ビックビックプロモーションを実施した。賞品内容は次の通りである。

広告展開

大人気を博したビッグビッグプレゼントプロモーション

特賞コロナマークllデラックス 3名

1等カラーテレビ 10名

2等冷蔵庫 20名

3等ポータブルテレビ 30名

4等扇風機 100名

5等特製レジャーバッグ 5000名

このプロモーションは対象となるドリンクを購入すると抽選券がもらえる方式で「沖縄の消費者」に限定して実施した。沖縄全住民100万人を対象としたものとしては空前絶後ともいえる規模で、届いた応募総数は文字通り100万通に達した。応募の殺到で、郵便局の中には切手の在庫を切らしてしまい、急遽スタンプで代用をしなければなかなったほどであった。

プロモーション終了後には琉球政府郵政庁から、「切手など十分な準備をしたいので、今後、同様なプロモーションを実施する予定があれば事前に教えてもらいたい」との要望があったほどである。
抽選日も大反響を呼び、公正を期すため警察官立ち会いのもと行われた。その後も、祖国復帰前にはモーターボートや再び乗用車をメインとした大規模なプロモーションを実施、これらも大きな評判を生んだ。

看板設置(首里桃原町)

看板設置(首里桃原町)

本島中部の歓楽街には、今も往時の名残りが見られる

本島中部の歓楽街には、今も往時の名残りが見られる

宜野湾市大山のネオンサイン

宜野湾市大山のネオンサイン

当時、本土ではコカ・コーラのプロモーション活動はほとんど実施されておらず、ましてやこのような大々的なプロモーションは他の業種まで含めても前代未聞のことだった。日本の法律の下でこうした大規模なプロモーションを行うことは不可能だったが、セールスプロモーションの効果は本土各ボトラーにも強くアピールされた。

コカ・コーラの広告は、沖縄ソフトドリンクス時代の初期から、アメリカからメタルサインを直輸入し、雑貨商などの店頭に掲出を始めた。また同時期から、広告課が立て看板や広告塔など自社制作を始め、各種行事などに盛んに提供・掲出するようになった。

その後、広告課は会社敷地に設けられた約20坪程度の作業所で、スタッフが「看板職人」として、屋外広告物の自社制作に本格的に取り組むようになった。当時制作された主なものは、白地に真っ赤なコカ・コーラトレードマークの横半分に店名を書いて、雑貨商などの軒下に間口いっぱいに掲出するプリビレッジボードサイン。販売店の壁面や板塀などにペンキで直接書き込むペインティッドウォール。行事や新規開店などに掲出する横断幕などであった。これらの看板類は取引の条件として無償で提供され、また掲出料を支払うこともなかった。双方がそれぞれの価値を認め合い、のんびりとした時代であった。
しかし競合他社も同様の広告掲出が盛んになり、広告合戦は当社の設立前後にピークに達した。それに費やしたエネルギーと費用は相当なものであった。その後、これと平行して日本コカ・コーラ社の協力を得て、ハイウェイ1号(現在の国道58号)沿いの4カ所に昭和45年までの間、ネオン塔を掲出した。

祖国復帰に揺れる沖縄の社会

那覇空港でステートメントを発表する佐藤総理

那覇空港でステートメントを発表する佐藤総理

祖国復帰闘争

祖国復帰闘争

沖縄の祖国復帰は、住民の長い間の悲願だった。1950年(昭和25年)ごろからぼつぼつと始まった復帰運動は、アメリカ政府の度重なる弾圧にも関わらず衰えることがなかった。1965年(昭和40年)8月、佐藤栄作総理大臣が現職の総理としては初めて沖縄を訪れ、『沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わらない』との名言を残した。この声明によって日本政府の意志が明確になり、沖縄の祖国復帰の可能性がにわかに現実味を帯びてきた。

そして日本政府によるアメリカ政府とのねばり強い外交交渉の結果、1969年(昭和44年)11月21日、佐藤・ニクソン会談において、いわゆる核抜き本土並み返還を公約する歴史的な共同声明がついに発表された。

沖縄コカ・コーラボトリング社では、新会社が設立したものの営業資材は旧事業所からそのまま引き継いだものであり、これでは積極的な営業展開は望めなかった。そのため東京コカ・コーラボトリング社より低価額で資材等の譲渡を受け、大きな支えとなった。また製造設備についても、販売拡大に応じて次々に譲渡を受けた。競合各社との熾烈な争いを繰り広げる中で、強力な後ろ盾として会社発展の大きな力添えとなった。

日本コカ・コーラ社による新聞広告

日本コカ・コーラ社による新聞広告

活発に動き出した市場での出店風景

活発に動き出した市場での出店風景

1969年(昭和44年)には日本のコカ・コーラ事業全体に打撃を与える事件が発生した。チクロ使用の誤報である。同年10月にアメリカがチクロ使用を禁じたが、その際にコカ・コーラにチクロが使用されているとの誤報が流れたのである。コカ・コーラに使用する甘味料は砂糖、それも高純度のグラニュー糖であり、チクロはもちろんのこと、他の人工甘味料は一切使用していなかった。にも関わらず、この誤報によって日本国内のコカ・コーラボトラーは大きなダメージを受けた。

日本コカ・コーラ社はこの濡れ衣というほかない誤報によるイメージを払拭するため、新聞広告などを掲載、事実の周知に努めた。
この1970年(昭和45年)の上半期、チクロ騒動が尾を引き、売り上げは不調だった。しかし、ルートの増設や販売体制の強化、また年初から活発に展開した各種プロモーションが徐々に効果を現した。そして下半期に入ると、目覚ましい回復を見せ、11月には早くも年間販売目標200万ケースを達成、最終的にこの年の販売数量は240.9万ケースを記録し、創立3年目にして遂に沖縄における清涼飲料占有率第1位の座を奪還した!

本土復帰で日本コカ・コーラへの仲間入り

大干ばつ・断水の影響

1971年(昭和46年)1月10日、前年に念願だった市場占有率1位の座を奪還したことを記念し、新年パーティが開催された。開会の挨拶で前田総支配人は「初めて沖縄に来た時、本当にひどい状況でしたが、私は近い将来必ずコカ・コーラがNo.1になることを確信していました。しかし、こんなに早く実現出来ようとは…皆さんの努力に深く感謝します」。短い言葉だったが感慨無量の面もちであった。

しかし、悲願の祖国復帰を目前に控えたこの年、稀に見る大干ばつが沖縄本島を襲ったのである。空梅雨に加えて夏場の雨が少なく、3月から8月までの降水量の平年比は、那覇で41%、宮古で15%、八重山で18%であった。

この干ばつによって、農業はじめ各産業は甚大な被害を受け、住民の生活用水も不足となった。とくに離島の被害は深刻で、6月の時点ですでに農作物などの被害額は宮古で367万ドル、八重山で217万ドルと報告された。

沖縄本島でも7月に入るとついに全面隔日断水が実施されるまでに至り、水事情はますます悪化、夏休み前の学校では給食が中止になり、やむをえず短縮授業が実施された。

いよいよのっぴきならない事態となった7月半ばには、アメリカから人工降雨の専門家が呼ばれ、7月20日以降、飛行機による沃化銀散布の人工降雨作戦が沖縄各地で実施された。これによって多少の雨は確認されたが文字どおり焼け石に水で、水源を回復するには到底いたらなかった。

当社においても深刻な事態となり、夏場の書き入れ時に、工場では製造量を目標の80%までに制限せざるを得なくなった。長引く断水の対応策として、地下水を汲み上げるボーリング計画を検討し調査を試みたが、実効性がないことが判り断念。次に、社屋裏手を流れる川から取水を試みたが期待通りの効果はなかった。

当時の製品不足をおわびするテレビ15秒テロップ

当時の製品不足をおわびするテレビ15秒テロップ

工場や各ストックヤードでは製品の在庫も底をつき、各セールスマンには限られた製品数量を配給する始末となり、販売活動に大きな支障をきたした。ついに窮余の一策として、東京コカ・コーラ ボトリング社から高い輸送費をかけて製品を調達し、急場をしのがざるを得なかった。

幸い、9月から11月にかけて相次いで接近、通過した数個の台風が平年を上回る月間降水量をもたらし、ようやくにして干ばつは解消、住民は水飢饉から解放された。

製造設備増設と具志川営業所開設

1971年(昭和46年)の夏場の難局を切り抜けると、教訓をもとに製造設備の見直し、販売戦略の再検討に入った。

製造ラインの新設と拡充、工場倉庫の拡張、貯水タンクと関連施設の増設など次々と青写真が描かれ、すでに進められていた工場棟の大改造と機械設備の再配置、工場等の新築に加え、製造設備の増設が行われた。12月には140坪の製品倉庫を建築、これによって壜詰製品の製造能力は大幅に増え、当面の生産体制は整った。

具志川営業所

具志川営業所

また、ルートセールスの拡充としては、せまく不便であったストックヤードを見直し、併合する形で10月1日に具志川営業所が開設された。当時、保有ルートは90ルートと、2年前の2倍以上に成長しており、具志川営業所はそのうち4分の1の23ルートを保有する本格的営業所の第1号となった。

隣接する与那城村は競合他社が圧倒的市場を支配している地域であり、営業活動は予想通り厳しいものになった。コカ・コーラのルートトラックが見えると奧に引っ込む店主もいて話をすることさえままならない。しかし、セールスマン達の志気は衰えず、地道な努力で顧客も着実に増えていった。

同年8月15日には、ニクソン米大統領が発表した新経済政策がドル価値の下落を決定的にし、国際通貨体制を大きく揺さぶった。俗にニクソンショックと呼ばれるものである。

この「ドル防衛策」発表で、ドルに対する不安感から、東京為替市場でドル売りの投機が続き、買い支えできなくなった政府・日銀は8月26日対ドル・レートのへの変動相場制への移行を決定し、24年4月連合軍司令部が設定した1ドル360円の固定相場時代は終わった。

通過確認風景

通過確認風景

日本円の実質的切り上げであると同時に沖縄の通貨であるドルの価値が相対的に切り下げられることを意味し、復帰を目前に控えた沖縄県民の最大の不安は通貨交換レートの問題であった。 1ドル対360円即時通貨交換の要求は日本政府に認められなかったが、10月9日に実施する通貨確認作業で確認された沖縄住民保有の現金通貨、通貨性資産に限って給付金の形で補償されることになった。

しかし賃金が1ドル対360円保証の対象からはずされた給与所得者には強い不安があり、住民の憤りの声は日に日に高まり、異常な様相を呈する事態となった。いわゆる通貨ストである。
当社でも、当然のごとく労働組合から1ドル対360円の賃金保証を求める強い要求が出された。もとより会社は、この要求に応えることを前提に対応策を検討し、社員の生活の維持と安定を最優先して考え、高梨社長の最終的な決断を経て、いち早く1ドル対360円保証を確約した。

祖国復帰と復帰特別措置

1972年(昭和47年)祖国復帰を迎えた沖縄では、長年の米国統治下から解放される安堵感と本土経済圏に組み込まれる不安感が住民の間に複雑に交錯していた。そのような中、5月15日午前零時、港に停泊した船が一斉に汽笛を鳴らし祖国復帰を告げた。悲願は叶い、新生沖縄県が誕生した。琉球政府は沖縄県庁へと引き継がれ、メインストリート国際通り沿道には日の丸と沖縄県と書かれた立て看板が連なり、この日を祝った。

祖国復帰、しかしまだ右側通行である

祖国復帰、しかしまだ右側通行である

同時にドルから日本円への交換が行われたが、沖縄県民の激しい要求かなわず、1ドル305円となった。

当社で一番速やかに終了しなければならない作業は、自動販売機のコインメックを交換することであった。営業や自動販売機メーカーの支援を受け、復帰前日の夕刻から県下一斉に取りかかった。夜を徹しての作業で復帰当日の早朝には1,200台以上の自動販売機が無事日本円仕様のメックに交換されセールスは円滑に続行された。
県内清涼飲料業者においては、日本円での卸、小売価格の設定が最大の懸案事項であった。数度に渡る8社間の話し合いで製品価格が決定された。当社は他府県と横並びに10円の壜保証金を強く主張したが、他の地元業者はこれまでその制度を取り入れていなかったため強く反対し、逆に当社に撤廃を要求する業者もあった。

しかし、びん代を徴収しないことで無償のびんが街や公道に散乱し、環境公害となっていることも鑑み、5円の壜保証金として妥協することになった。

市場の変化と日本コカ・コーラボトラーへの仲間入り

円経済移行により本土産清涼飲料の参入は当然予測され、その通りとなった。缶製品、紙パック製品がどっと沖縄市場に出回り、特に果汁飲料の進出が目立った。

当社でも復帰からちょうど1週間目の5月23日、初めての缶製品である、コカ・コーラ、ファンタ オレンジ、ファンタ グレープ、スプライトを新発売した。アメリカでは1955年(昭和30年)、本土では1965年(昭和40年)に販売が開始され、遅れること7年目であった。当初は割高感から売れ行きが鈍かったが、自動販売機の普及とともに尻上がりに売り上げが伸びていった。また、翌48年には、消費者の嗜好の多様化に対応し、新製品HI-Cオレンジが発売された。

本土では1963年にボトラー体制が確立され、それに伴い同業者や団体との間で摩擦が生じるようになった。これらの問題はもっぱら東京コカ・コーラ ボトリング社が処理していたが、今後も問題の増大、複雑化が予想されることから、コカ・コーラ業界としての組織を持つ必要性が痛感された。そのため高梨社長を中心に、1967年(昭和42年)9月2日、16のボトラー社とと日本コカ・コーラ社で構成する日本コカ・コーラ ボトラーズ協会が発足した。そして1972年の本土復帰と同時に当社も17番目のボトラーとして同協会の一員となった。

地域社会とともに

プラントツアー

プラントツアー

当時、セールスマンの期待を担って登場した三菱キャンター3.0t

当時、セールスマンの期待を担って登場した三菱キャンター3.0t

日本コカ・コーラシステムの一員となってからは、日本コカ・コーラ社の協力を得て、全国規模のプロモーションが実施された。
また日本コカ・コーラボトラーズ協会が運営する「コカ・コーラボトラーズ育英会」事業にも参加した。経済的な事情で大学進学が困難な状況にある学生に対し、対象となる大学生に在学中の4年間、返済の必要のない奨学金を支給した。その他にも「高松宮杯全日本中学校英語弁論大会」の協賛や、「沖縄青少年映画育成協議会」の事務局担当など、事業の一環としてこのような社会奉仕活動も盛んとなった。

また、企業の正しい情報を伝え、企業や製品に対する理解と好意を寄せてもらうため、CR(Community Relations)活動を進めることになった。その一環として広報活動やスポーツ大会への協力協賛により教育分野の指導者との良好な関係を築いた。また製造設備の増設に合わせ工場見学用通路を設け、昭和50年からは「プラントツアー」と称して、広く見学者を受け入れる体制を整えた。工場見学のあと、ビデオ上映、パンフレットおよびノベルティーの配布、クイズコーナーや質問コーナーを取り入れ、現在に至っている。 コカ・コーラに含まれる成分が身体に与える影響などについて専門的な質問もあり、これらコカ・コーラに対する間違った情報を払拭する良い機会にもなっている。

コカ・コーラを水牛車で配達

48年頃、石垣島から運ばれてきたコカ・コーラを水牛車で配達する貴重な写真(竹富島)

当時、偉容を誇った那覇営業所

当時、偉容を誇った那覇営業所

ビーチパーティのスナップ

ビーチパーティのスナップ

この他、「さわやかゴルフ大会」の開催、「那覇ハーリー」「沖縄全島エイサーまつり」「那覇大綱挽き」など郷土芸能や伝統行事への協力・協賛も実施するなど、社会貢献や利益の地元還元を積極的に行うという経営理念の基に可能な限り、これらの要請に応えるようにしている。

このような活動とともに、冷機や車両の拡充など基盤整備も着々を進む中、会社は南部地域での販売拠点の拡充を目的に昭和48年9月1日、新たに那覇営業所を豊見城に開設した。急激に人口が増加していた南部地域では具志川営業所を上回る29ルートでスタートした。

また離島では、1951年(昭和26年)販売が開始されてから日用雑貨品などと一緒に各離島に届けられていたが、徐々に販売量が増え、1954年(昭和29年)八重山の塩谷商店(現(株)しおがい)、1957年(昭和32年)久米島の与那嶺商会、1968年(昭和43年)宮古のさど山商会、1972年(昭和47年)、宮古・伊良部島の儀間商店と4つの販売店と販売代理店契約を結び、販売ルートの体制が固まった。

体制が整うと、賃金や勤務時間などの労働条件も改善され、福利厚生面では、全社員参加のビーチパーティ、新年宴会、スポーツ大会などが毎年企画され、社内の和が深められていった。こうして、沖縄におけるコカ・コーラ事業は荒波を乗り越え安定成長期へ向かっていった。

現代までの沖縄コカ・コーラボトリング社

沖縄国際海洋博覧会ブーム

海洋博の目玉、アクアポリス全景

海洋博の目玉、アクアポリス全景

昭和50年7月20日、沖縄本島北部の本部町において、“海-その望ましい未来”をテーマに復帰記念事業最大の目玉である「沖縄国際博覧会」が開会され、開会式典には名誉総裁、皇太子明仁親王殿下がご臨席された。

会期は翌年1月18日までの六ヶ月間で、参加団体が37カ国、3国際機関、8民間グループに及ぶこの博覧会は、約100ヘクタールの敷地に、地元「沖縄館」をはじめ、50余のパビリオンが立ち並び、洋上には未来の海上都市「アクアポリス」が浮かび、当時の特別博としては史上最大規模のものとなった。

また、南太平洋に浮かぶ小島「サタワル島」から星と風をたよりに、太平洋3,000キロを横断し会場を目指したカヌー“チェチェメニ号”の航海は、ロマンをかきたて海洋博に華を添えた。

この海洋博開催は沖縄経済に大きな影響を与え、関連した公共事業は総事業費2,650億円、しかも県内外の企業は海洋博を当て込んだホテル建設や飲食関連事業への進出、観光関連施設の整備などの事業活動を競った。なかでもホテルの建設ラッシュが目立ち、同時期に96軒のホテルが新規に建設された。

新装した国内線第1ビル正面夜景

新装した国内線第1ビル正面夜景

昭和49年4月には沖縄の表玄関「那覇空港」の新(暫定)ターミナルビルが完成し、海洋博対策とその後の観光立県として観光客の受け入れに供えた。当社ではターミナル内の飲食店1カ所と、軽食コーナーのディスペンサー、壜・缶自動販売機などを取引した。

昭和50年5月20日には、沖縄初の高速自動車道が石川市-名護市許田間(26.1km)に開通した(料金は片道300円)。高速自動車上り下り2カ所に設けられた「伊芸サービスエリア」では、ディスペンサー、缶自動販売機を設置し取引を開始した。

当社としては海洋博期間中会場への搬入を考え、かなり早い時期から近隣に臨時配送営業所を設置するため会場周辺を物色したが、既に駐車場や飲食店などが予定され、手頃な物件がなかった。やむなく幹線道路から1km農道を入ったところに臨時営業所として本部営業所をおくことにした。100坪程度の敷地で配送基地としての体裁を整えた。

建物への搬入は、一旦庭先で製品を下ろし、そこからローラーで運び込むという煩わしさであった。建物内および一部は野積みで所狭しとストックし、配送には、ルートトラック3台と予備車1台、バンタイプ1台、フォークリフト1台の計6台で行った。作業はアルバイト、自動販売機メーカーからの応援など総勢20名で行い、期間中は本社からの社員の支援もあった。

販売得意先181軒、販売機材195台への配送のため、開会日を挟んだ前後1週間はまさに繁忙を極めた。海洋博期間中は、朝5時からルートトラックを会場に乗り入れ、会場内60に及ぶ販売店に製品を配達。とりあえず店舗前に製品をつんでおき、自動販売機には製品を詰めておく。この作業が完了するのが午前8時頃で、これを終えるとチームはひとまず急いで会場を引き上げなければならない。というのも場内に車両を乗り入れられるのは、午前8時30分までという厳しい規制があったためである。毎日が時間との闘いだった。

アクアポリスへ自動販売機の深夜の設置作業

アクアポリスへ自動販売機の深夜の設置作業

一旦、営業所に戻ってルートトラックを置くと、メンバーはすぐに引き返し、今度は徒歩で場内に入る。ちょうど9時頃、売店に従業員が出勤するので、製品の確認と納品伝票にサインをもらうためである。この作業がまた大変だった。なにしろ、海洋博会場は端から端まで直線距離で4km、その場内を道はうねうねと縫うようにして走り、売店・自動販売機は全域に散在している。しかも真夏の沖縄は、入場開始の午前10時には、すでに炎天下である。その中を担当者は毎日徒歩で回った。半日がかりの仕事だった。

開会後ほどなく、海上都市アクアポリスへも自動販売機3台の設置が認められた。海洋博の運営に自分たちが一役買っているのだという使命感に燃えていた。

創立10周年と730(ナナサンマル)の実施

昭和53年3月2日、那覇市首里の郵便貯金会館において創立10周年記念式典と祝賀パーティを盛大に挙行した。高梨社長は記念式典を飾る挨拶の中で次のように語り、全社員を激励した。

記念式典での集合写真の一コマ

記念式典での集合写真の一コマ

「沖縄コカ・コーラボトリングが発足して、ちょうど10年が経ち、皆さんの努力で会社は大きく立派なものになりました。ところで沖縄では、コカ・コーラは戦後間もなく販売が開始されていますから、コカ・コーラと沖縄の皆さんとの関わりということでいうと、もう20年以上になるわけです。そしてもっとコカ・コーラの歴史をたどっていくと、アメリカで開発されたのが1886年のことですから、それから数えると今日まで90年以上が経ちます。どんないい商品も永い間には、衰退もすれば駄目になるといいますが、コカ・コーラだけは例外のようです。

当社もこれからもっともっと発展していくことを私は確信しています。しかし、もちろん私達は何もしないでここまで来られたわけではありません。工場の機械や車両、自動販売機などへ積極的に投資してきました。また沖縄で調達できるものは出来るだけ現地調達をして、利益を地域に還元するなど、あらゆる努力を重ねてきました。その結果が今に実っているのです。
今後も会社の発展とともに、皆さんの生活が向上し、ひいては今以上に沖縄社会に貢献できればと願っております。これからも一緒に頑張りましょう!」

創立10周年を迎えたこの年、会社は従業員286人を擁する大所帯となり、車両150台、自動販売機などの販売機材5,300台を所有、4つの営業所、89ルートを保有し、製造施設の拡張も進み、その規模は創立当時とは較べものにならないくらい発展した。

復帰処理の総仕上げ【730】

復帰処理の総仕上げ【730】

この年、沖縄県では車が右側通行から左側通行へ移行する、730(ナナサンマル)の実施があった。730は、復帰処理の総仕上げとも言われたもので、7月30日午前6時をもって、県内のすべての道路で一斉に実施された。
これに先だって、交通の変更に不安を持つドライバーのために、県内の自動車学校が解放され、左側通行の練習が行われた。

会社では、この交通方法の変更によって販売ルートの巡回順序が従来と変わることもあり、半年以上前からルートの徹底的な見直しを行ったほか、変更当日は道路混雑を予想して各販売店に事前に充分なストックを行い、さらにセールスマンには左手首にサポーターを巻いて常に左側通行を意識するよう指示した。
このような細かな配慮によって、当社セールスマンは特にこれといった問題もなく、左側通行に対応することができた。
しかし、県内の道路全般についてみると、交通方法の変更実施直後は交通渋滞や事故の多発のほか、営業に支障をきたす店が続出するなど、多くの混乱が見られた。

進む市場の構造的変化

昔ながらのマチヤグヮー

昔ながらのマチヤグヮー

昭和48年のオイルショック後の日本経済は低成長経済に入り、一転して新たな競争時代を迎えた。特に清涼飲料水業界は、異業種からの参入が目立ちはじめ、既存業者の新製品導入と併せ、数多くの新製品による多種多様化が進んだ。
昭和45年から市場に参入したコーヒー飲料では、当社では昭和50年よりジョージア製品が全国で次々に発売された。55年にはスポーツドリンク、58年には健康指向、無糖ノンカロリー嗜好を受け、ウーロン茶が登場した。

市場の形態も変化してきた。沖縄では古くから、「マチヤグヮー(雑貨商)」と呼ばれる小規模な店が一般の消費者によく利用され、食料品や酒・タバコ・雑貨などと一緒に、冷やし物として清涼飲料などが取り扱かわれていた。

配送効率の向上が大きな課題に

配送効率の向上が大きな課題に

市場は多品種低価格時代へ

市場は多品種低価格時代へ

しかし日本復帰3年後の昭和50年5月、国内最大手のスーパー参入を契機に、県内にも本格的スーパーの店舗展開が始まり、スーパーマーケットによる販売量が大幅に増えた。このような流通業の変化に伴い、清涼飲料全体のホームマーケットにおける消費動向は、スーパーマーケット中心への移行が顕著となった。

スーパーマーケット対策としては、58年1月にマーチャンタイザーを配属、60年4月には組織変更により、スーパーマーケット専用ルートを設けた。また、昭和61年より一部のルートトラックに無線機を取り付け、緊急な電話注文による対応など配送の機動力を強化した。スーパーマーケットの進出によって苦戦を強いられたとはいえ、地域に根ざす小規模雑貨商(マチヤグヮー)などから、この迅速なサービス体制は高い評価を受けた。

昭和62年以降、清涼飲料業界は好景気のもと堅調な個人消費に支えられ、順調に販売を拡大した。一方、円高と貿易自由化をバックに、外国産原料ならびに製品の輸入が増大し、加えて年間800~1,000種類の新製品が発売されるなど、市場は多品種低価格時代へと拍車が掛かり、一段と厳しい市場状況となってきた。このような状況の中、自社のシェアアップを図るため、自動販売機の設置、また年々増加するスーパー・コンビニエンスストア対策に力を入れはじめた。

創立25周年と新たなる出発へ

首里城復元

首里城復元

平成4年は祖国復帰20周年にあたり、記念事業として沖縄戦で焼失した首里城が秋に復元された。首里城を舞台とするNHK大河ドラマ「琉球の風」が1月から放映され、全国津々浦々まで首里城が紹介された。かつて歴代琉球国王の居城であった首里城は沖縄県民にとって心のより所ともいえるものであり、観光資源の開発という意味からも、その復元の意義は大きかった。

合同社葬

合同社葬

平成5年1月16日早朝、高梨仁三郎社長が享年89才にて死去した。
翌2月12日に株式会社丸仁、東京コカ・コーラボトリング株式会社、株式会社小網の3社による合同社葬が執り行われた。葬儀委員長である、ザ コカ・コーラ カンパニー インターナショナル ソフトドリンクス ビジネスセクター社長ジョン・ハンター氏による弔辞では、日本のコカ・コーラ事業の発展に尽くした高梨社長の功績が計り知れないほど偉大であること、ならびに今日のコカ・コーラ事業が隆盛をみるに至ったことは、高梨社長が明確なビジョンと決意で数多の障害を克服したことによるもので、それに対する敬意を表した。葬儀、告別式には内外から多くの弔問があり、故高梨社長の遺徳を偲んだ。

25周年記念350ml缶

25周年記念l缶

後任には、沖縄コカ・コーラボトリングの取締役も歴任された高梨圭二取締役が選任された。

平成5年3月1日、沖縄コカ・コーラボトリングは会社創立25周年を迎えた。

4月8日、うりづんの快晴日、故高梨仁三郎前社長の遺影と共に、来賓、OB関係社員、役員、および全社員450名が出席して、宜野湾市の沖縄コンベンションセンターにおいて創立25周年記念式典を挙行した。

高梨新社長の挨拶において、社長は故高梨前社長の会社設立の意志など25年の歩みを振り返ると共に、次のように将来の展望を延べ、社員を激励した。

「一般社員の方にお会いするのは、今年初めてだと思います。1月に父(仁三郎社長)が亡くなりまして、その後社長を務めさせて頂いております。昭和43年、縁がありまして、沖縄のコカ・コーラの権利を父が買いました。今にして思えば、コカ・コーラの商売だけでなく、沖縄という県が発展するという自信があったからこそ、皆さんと一緒にここまで会社をやってこられたのではないか、と感じております。

時代は遡りますが、1429年~1879年の間、400年以上も続いた琉球王国は、いろんな国と交流を図りながら、しかも武器も持たないで、発展してきた非常に長い王国だと聞いております。そういう意味で沖縄に縁ができたことをこれからも大切にし、また次の25年に向けて今日から第1歩を踏みだすわけですが、永きに亘って栄えた琉球王国の輝かしい歴史を持つ皆さんに、プライドを持って、常にNo1になるよう努力されることを望みます。またそういう手助けが私にできたら、本当にありがたいと思います。」

琉球王国の誇りを胸に

琉球王国の誇りを胸に

25周年告知新聞広告

25周年告知新聞広告

昭和43年会社設立時は社員数200名弱、販売数量は130万ケースに過ぎなかったが、4分の1世紀を経たこの時、社員数は350名を擁し、7つの営業所を構え、販売数量は749万ケース、売上高は157億円に達する規模に発展した。 先輩社員の努力や地道な活動、消費者や販売店のご支持、また日本コカ・コーラ社、東京コカ・コーラボトリング社のご指導・ご支援はもちろん、地元調達を優先する地域経済との共存共栄などが、大きな力となってここまでこられたのであり、これらのことに深く感謝しつつ、次の節目に向けて全社員が一致結束して未来を切り開く決意を固めた記念式典であった。

今現在も、これからも、沖縄コカ・コーラボトリングの歴史は続いています。 今回は平成5年までの歴史をピックアップしてご紹介いたしましたが、いつかまたこの続きの歴史を紹介させて頂きたいと思います。 ご愛読ありがとうございました。(完)

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